敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築いた。
崇峻天皇時代は政治の実権は馬子にあり、崇峻天皇は不満であった。
崇峻天皇5年10月(592年)、天皇へ猪が献上されたが、崇峻天皇は猪を指して「いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と発言し、多数の兵を召集した。
馬子は崇峻天皇の発言を知り、天皇が自分を嫌っていると考え、天皇を殺害することを決意する。
同年11月、馬子は東国から調があると偽って、東漢駒に崇峻天皇を殺害させた。その後、東漢駒は馬子の娘の河上娘を奪って妻とした。怒った馬子は東漢駒を殺害させた。
馬子は皇太后であった炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇とした。
厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となった。
馬子は聖徳太子と合議して政治運営し、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を進め、遣隋使を派遣して隋の社会制度や学問を輸入した。
推古天皇4年(596年)馬子は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺を建立した。
推古天皇28年(620年)聖徳太子と共に「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」を記す。
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